神話に学ぶキャリアチェンジ|役割は終わるのではなく、移り変わる

神話に学ぶキャリアチェンジ 神道の心

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役割の移り変わり

何かを辞めるとき。
人は不思議と、後ろめたさを感じるものです。

長く続けてきた仕事。
背負ってきた肩書き。
周りから期待されていた立場。

それらを手放そうとするとき、心のどこかで小さな声がします。

「今までのことは、無駄になってしまうのだろうか」
「途中で投げ出すことに、なりはしないだろうか」
「自分が抜けたら、あとに残る人たちに迷惑をかけるのではないか」

50代を過ぎてから新しい道を選んだ私にも、この声はずっと聞こえていました。

けれど今、動画編集という新しい仕事を続けながら、思うことがあります。

役割は、終わるものではないのかもしれない。
ただ、移り変わっていくものなのかもしれない、と。

そしてもう一つ。
自分がいなくなっても、その仕事は続いていくということ。
それは寂しさではなく、実はとても救いのある事実だったのです。

この感覚は、私が長く関わってきた日本の神話の中に、驚くほど自然な形で描かれていました。


神話は「変化」の物語で満ちている

イザナギの禊

日本神話を読んでいると、あることに気づきます。

神々もまた、役割を変えながら生きているということです。

『古事記』上巻に描かれるイザナギは、妻イザナミを失いました。
黄泉の国からの帰り道、彼はすべてを失ったように見えます。

けれどそこで彼は、禊を行い、新たな三柱の神々を生み出しました。
アマテラス、ツクヨミ、スサノオ。
喪失の後に、次の役割が生まれたのです。

(この物語は以前「禊とは?伊邪那岐神話に学ぶ再生と、極寒の五十鈴川で知った命の輪郭」でも触れました)

大国主命はどうでしょうか。
苦難と試練を越え、ようやく国を治める立場にたどり着いた矢先、天からの使者が現れ、彼は国を譲ります。
築き上げた地位を、手放したのです。

けれどその後、彼は「見えない世界」を司る役目を担いました。
表舞台から降りることが、終わりを意味しなかったのです。

(詳しくは「国譲り神話とは?」で書きました)

スサノオもまた、暴れ神として高天原を追放されました。
一度は「失格」の烙印を押されたはずの神が、地上に降り、ヤマタノオロチを退治し、英雄となっていきます。

神々の物語には、共通する構造があります。

喪失 → 変化 → 新しい役割

そこには、「終わり」という言葉が似合いません。

そしてもう一つ、見過ごしてはならないことがあります。
神々が去ったあとも、物語は続いているのです。
イザナギが表舞台から退いても、アマテラスの時代が始まりました。
大国主が国を譲っても、地上の営みは続きました。

誰かが役割を終えることは、次の誰かの役割が始まる合図でもある。

神話は、そう伝えているように感じます。


「役割を降りる」ことは、失敗ではない

神職として神社に勤めていた頃、私は自分の役割を疑ったことがありませんでした。

小さい頃から、神社が生活の中心でした。
祖父も親戚も、その多くが神職か、神社に関わる仕事をしていました。
私にとって神社の外の世界は、どこか遠くの景色のようでした。

けれど、テレビをつけると、そこには数え切れないほどの職業がありました。

そして私たちの世代は、ちょうど初代ファミコンの時代を生きた世代です。
夕方、学校から帰って、コントローラーを握った子どもたち。
ゲームの中には「ジョブチェンジ」というシステムがありました。
戦士だったキャラクターが、魔法使いになる。
魔法使いが、賢者になる。
同じ人物が、いくつもの職業を経験できるのです。

子ども心にそれを不思議に思っていました。

人は、一つの役割だけで生きていくものなのだろうか。

神社に勤めるようになってしばらく経った頃、その問いが再び頭をもたげてきました。

自分には、神社以外にも、何かできることがあるのではないか。
もっといろんな挑戦や体験がしてみたい。

その気持ちが、少しずつ大きくなっていったのです。


50代からの決断|「もう遅い」と「まだ間に合う」のあいだ

50代で仕事を変えるというのは、決して軽い決断ではありません。

安定を手放すこと。
これまで築いてきた人間関係が変わること。
未経験の分野に、いちから飛び込むこと。

正直、怖さもありました。

一番心に引っかかっていたのは、
「自分が抜けたら、神社はどうなるのか」という思いでした。

けれど、あるとき気づいたのです。

神社は、私一人がいなくなっても続いていく。
何百年、何千年と続いてきた祈りの営みは、私という個人よりずっと大きなものだ。
むしろ、個人が抜けても続いていくからこそ、それは尊いのだ、と。

これは冷たい話ではありません。
逆です。

自分がいなくなっても続いていく仕事に、自分は関わっていた。
それだけで、十分だったのです。

そして「もう遅い」と思う気持ちと、「まだ間に合う」と思う気持ちは、実は同じ場所から生まれているということにも気づきました。

どちらも、「今の自分を変えたい」という願いから来ているのです。

(この決断のプロセスは「50代で安定した仕事を辞める決断ができた理由」でも書きました)

神話の中の神々は、迷いながらも一歩を踏み出しています。
イザナギは黄泉の国から逃げ帰ってきました。
スサノオは追放されてから、自分の役割を見つけました。
大国主命は、国を譲るという苦渋の選択をしました。

彼らは、「完璧な準備が整ってから」動いたわけではありません

動いてから、次の役割が形になっていったのです。


「終わる」のではなく「重なっていく」

深夜の編集作業

動画編集の仕事を始めて、しばらく経った頃のことです。

深夜、パソコンの前に座って、映像に音を重ねていました。
画面から漏れる青白い光。
イヤホンから聞こえるBGM。
カーソルを何度も戻しては、1秒に満たないカットの間を調整する。

そのとき、ふと思ったのです。
これは、神職の仕事とどこか似ている。

祝詞を捧げるとき、私たちは言葉を選び、間合いを整え、場の空気と一つになろうとします。
(「祝詞とは何か?」でも書きました)

映像編集も、似ています。
カットの間、音の入り方、テロップの呼吸。
「伝えたいこと」を、受け取る人の心に届くよう、丁寧に整えていく作業です。

かつて神職として身につけた「間」の感覚が、今の仕事の中に生きていました。

役割は、消えてなくなったのではなかったのです。
形を変えて、次の役割の中に溶け込んでいたのです。

以前「クリエイターが神社にひかれるのはなぜか」という記事で、表現することは祈りに似ている、と書きました。
自分自身がその実感を、日々深めているところです。

次の役割が形になっていったのです。


神々は、なぜ役割を変えられたのか

もう一度、神話に戻ってみましょう。

神々が役割を変えられた理由は、何だったのでしょうか。

私は、こう受け止めています。

彼らが向き合っていたのは、「役割」ではなく、役割の奥にある願いだったのではないか。

イザナギが本当に守りたかったのは、自分の立場ではなく、命そのものでした。
だから禊を行い、新しい命を生み出しました。

大国主命が本当に大切にしていたのは、地位ではなく、人々の営みでした。
だから、国を譲ることができたのです。

役割は変わっても、その奥にある願いは変わらない

神話は、そう教えてくれているように感じます。


あなたが抜けても、その場所は続いていく

無人の神社の朝

キャリアチェンジを迷う人が、口にする言葉があります。

「自分が抜けたら、あの仕事はどうなるのか」
「自分がいないと、回らないのではないか」

責任感のある人ほど、そう考えます。
かつての私も、そうでした。

けれど、少し時間が経った今、思うのです。

その心配は、優しさから来ています。
そして同時に、少しだけ自分を大きく見積もりすぎているのかもしれない、とも。

神社は続きます。
会社も続きます。
チームも、家族も、地域も。

私たち一人ひとりは、大きな流れの中の一つの結び目にすぎません。
(「結びとは?」でも触れました)

結び目は、ほどけても、次の結び目が生まれます。
そうやって、糸は続いていくのです。

だから、もし今、あなたが「自分が抜けたら」と悩んでいるなら。
その心配ごと、そっと横に置いてみてください。

続いていくものを信じることも、また一つの祈りなのかもしれません。


あなたの「役割の奥」には、何がありますか

もし今、あなたが人生の変化の時期にいるなら。
何かを辞めようとしているなら。
新しい何かを始めようとしているなら。

一度、心の中で問いかけてみてください。

今の役割の奥に、私が本当に大切にしてきたものは何だろう。

その答えが見えたとき、次に進む道は、案外はっきりと現れてくるはずです。

役割は、終わりません。
移り変わっていくだけです。

そして移り変わるたびに、私たちは少しずつ、自分という物語を書き足していくのだと思います。

神々がそうだったように。
あなたも、私も。

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おわりに|次の役割は、もう始まっているのかもしれません

神職を辞めたとき、私は「一つの役割が終わった」と思っていました。

けれど今、振り返ってみると、あれは終わりではありませんでした。

祈りは、神社の中だけにあるものではなかったのです。
言葉を整え、場を整え、誰かの心にそっと届ける。
その営みが続く限り、私の中の「神職」は、形を変えて生き続けているのだと思います。

そして、私が去ったあとの神社もまた、今日も朝の祝詞を奏上し、参拝者を迎え入れているはずです。
続いていく。
それが、何よりの安心です。

役割の移り変わり

あなたにも、そんな役割があるはずです。

まだ気づいていない、次の物語が。

もしよかったら、今日という一日を、役割の移り変わりの一場面として、丁寧に過ごしてみてください。
(「今ここ」を大切にする感覚については「中今(なかいま)とは?」でも書いています)

きっと、何かが動き始めているはずです。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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