紙と、インクと、少し埃っぽい空気。
子どもの頃は、それがただの「図書室の匂い」でした。
今は、あの匂いを思い出すだけで、胸の奥で何かが動きます。

図書室の匂いを覚えている
通っていた小学校の図書室は、校舎のいちばん奥にありました。
木の書架が壁一面に並び、窓からの光が斜めに差し込む時間帯だけ、埃が舞っているのが見えました。
昼休みの図書室は、いつもがらんとしていました。
サッカーをする子、鬼ごっこをする子。そのどちらでもない数人だけが、そこにいました。
ページをめくる音と、遠くの運動場から届く歓声。
その二つの音が同時に聞こえる場所を、私はどこか安心できる場所として覚えています。
古事記を最初に手に取ったのも、あの図書室でした。
古事記との、最初の出会い
正直に言うと、最初はまったく面白くありませんでした。
神様の名前が長くて、覚えられません。
イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ。読み仮名を目で追うだけで疲れてしまいます。
誰が誰の子で、誰が誰と争っているのか、途中で分からなくなります。
結局、最後まで読み通せないまま、書架に戻した記憶があります。
あの頃の私にとって、古事記は「昔の日本人が書いた、よく分からない話」でしかありませんでした。
それでいい、とも思います。
子どものうちは、意味が分からなくてもいいのです。ただ、名前の響きや、神様が変身する場面の奇妙さだけが、記憶のどこかに引っかかっていればいい。

神職として、もう一度開いた古事記
社務所で、あらためて古事記を開いたのは、神職として奉職してからのことでした。
たとえば、大国主命が兄弟神たちに何度も裏切られながら、そのたびに力を貸してくれる存在と出会い、立ち直っていく場面。
出雲の縁結びの話とはまた違う、大国主命の試練の物語です。
因幡の白兎の物語も、その中の一つです。
子どもの頃は「うさぎが皮を剥がれて、鰐に仕返しされる、変な話」としか思いませんでした。
大人になって読み返すと、そこにあるのは、失敗した者が、正しいやり方をもう一度教わって、やり直していく話でした。
同じ文字を、同じ順番で読んでいるはずなのに、まったく違う話に見えます。
そのことに、少し動揺しました。

同じ文字が、違う意味を持つとき
物語そのものは、一文字も変わっていません。
変わったのは、こちらの側です。
失敗した経験がある人には、失敗した神様の話が、他人事ではなくなります。
誰かに裏切られた経験がある人には、裏切られた神様の話が、急に近くに感じられます。
古事記に限った話ではないのかもしれません。
高校生のとき、夏目漱石の「こころ」を読んで、正直なところピンときませんでした。先生と呼ばれる人物が、なぜあれほど苦しんでいるのか、当時はよく分かりませんでした。
三十代になって読み返したとき、同じページの同じ一文で、手が止まりました。
誰かを裏切った記憶がある人には、あの本は違う顔をして迫ってくるのだと、そのとき初めて分かりました。
本は変わっていません。変わったのは、こちらの側でした。
秋という季節が、読み直しに向いている理由
「読書の秋」という言葉には、それなりの理由があると感じています。
日が短くなり、夕方の帰り道が、少しずつ薄暗くなっていきます。
先日、社務所からの帰り道で、鈴虫の声を聞きました。去年より、少し早い気がしました。
そんな小さな違いに気づけるのも、外向きだった意識が、少しずつ内側に戻ってくる季節だからかもしれません。
図書館や書店の奥で、以前読んだ本を見つけたとき。
背表紙を眺めているだけで、「この本を読んでいた頃の自分」が、少しだけよみがえってくることがあります。
秋の読書とは、新しい知識を仕入れることだけではなく、過去の自分と、今の自分を並べてみる時間でもあるのだと思います。
神話は、昔話ではありませんでした
神話とはただの昔話なのかという問いを、以前この場所で考えたことがあります。
古事記を読み直して感じるのは、神話が昔話ではなく、鏡に近いものだということです。
自分が今、何に悩み、何を大切にしているか。
その状態によって、同じ物語の中から、まったく違う一文が浮かび上がってきます。
図書室に、戻ってみようと思います
あの図書室は、もう建て替えられて、今は違う建物になっています。
けれど、紙とインクの匂いは、今でも別の図書室や古書店で、ふとした瞬間に嗅ぐことができます。
その匂いを嗅ぐたびに、私はあの午後の光と、めくったページの手触りを思い出します。
もし、書架の奥に、昔読んで退屈だった本があるなら。
一度、開いてみてください。
そこに書かれている文字は、何も変わっていません。

変わっているのは、きっと、あなた自身の方だからです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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