九月の半ば、稲刈り前の田んぼの縁。
風はまだ夏の名残を持っていましたが、日差しだけが少し斜めになっていました。
その赤は、近づくほど強くなります。
曼珠沙華。彼岸花。

この花には、緑の葉がありません。 花が終わったあと、忘れた頃に細い葉だけが伸びてくる。 そして次の年、花が咲く頃には、その葉はもう枯れています。
花と葉は、一度も同じ景色を見ることがない。 そう知ったとき、私はしばらくその場を動けませんでした。
この性質から「葉見ず花見ず」とも呼ばれます。
なぜ「彼岸」に咲く花なのか
彼岸花が咲くのは、秋のお彼岸の頃。 気温よりも日照時間に反応して咲くと言われていて、毎年ほぼ決まった時期に、申し合わせたように地上に姿を現します。
お彼岸は、ご先祖を偲ぶ期間です。 あの世とこの世の距離が、少しだけ近づくとされてきた時期でもあります。
だからでしょうか。 彼岸花は昔から、お墓のそばや田んぼの畦に多く植えられてきました。
理由は一つではありません。
球根に毒があるため、モグラや野ねずみから田や墓を守るためだったとも言われています。
実用と祈り、両方の意味を背負って、この花は日本の暮らしのそばに植えられ続けてきたのだと思います。

その方々の多くが、来る途中の道で彼岸花を見てきたと話してくれました。
赤い花の話をするとき、皆さん少しだけ声が柔らかくなっていたのを覚えています。
「曼珠沙華」という、もう一つの名前
彼岸花には「曼珠沙華」という、もう一つの呼び名があります。
これは仏教の経典に由来する言葉です。 法華経の中で、めでたいことが起こる予兆として、天から降ってくる赤い花として描かれています。
同じ花なのに、片方の呼び名は死や別れを連想させ、もう片方は天からの吉兆を意味している。
同じ赤い花に、死の気配とめでたさが同居していること。 その事実の前で、私はいつも足を止めてしまいます。
二つの意味を同時に背負って、この花は毎年同じ場所に咲いているのだと思います。
別れの形をした、再会
花と葉が出会えない。 そう聞くと、切ない話のように感じます。
けれど、球根はずっと同じ場所で、両方を生み出し続けています。
花が枯れて土に還る頃、見えないところで次の準備が始まっている。 葉が枯れて姿を消したあとにも、根はそこに残っている。
地上では出会えなくても、根では確かにつながっている。 私にはそれが、別れというものの、もう一つの形に見えます。

目に見える形が変わっただけで、根の部分は残り続けている。
彼岸花の在り方は、人と人との別れにも、少し重なって見えます。
大切な人を見送ったとき。 離れ離れになった関係を思い出すとき。
「もう会えない」という事実の重さに、心が沈むことがあります。 その重さを、無理に軽くする必要はないと、私は思っています。
ただ、彼岸花を見るたびに、私はこう思うようにしています。 姿を見せていないだけで、まだそこにあるものがあるのではないか、と。
来年も、同じ場所に
不思議なことに、彼岸花は毎年、ほとんど同じ場所に咲きます。
一年のほとんどを土の中で過ごし、ある日、示し合わせたように地上に現れる。 そしてまた静かに姿を消していく。
これを「再会」と呼んでいいのか、私にもまだ分かりません。 ただ、毎年同じ場所に立って、同じ赤に出会えることには、何か確かなものがある気がしています。
別れた誰かのことを、毎年同じ季節に思い出す。 そういう時間の過ごし方も、あっていいはずです。
無理に忘れようとしなくていい。 ただ、思い出す場所と時期を、自分の中に一つ持っておく。
彼岸花は、そのための目印になってくれる花です。
見て楽しむ花として、摘み取ったり持ち帰ったりせず、そのままの姿を味わっていただくことをおすすめします。
おわりに

畦道の赤い列を、もう一度振り返りました。
花も葉も見えない季節が、この先また巡ってきます。 それでも、根はきっと、そこにあり続けています。
もし今、誰かとの別れを抱えている方がいたら。 その別れの奥に、まだ枯れていない根があるかもしれません。
そこに、何が見えるでしょうか。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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