保食神(うけもちのかみ)とは?”食べること”が神話になる日本人の感覚を読む

保食神とは 保食神

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炊きたての白いごはんが盛られた茶碗から湯気が立ちのぼる情景

はじめに ― 一膳のごはんから始まる神話

炊きたてのごはんを、茶碗によそう。
湯気が立ちのぼり、ふっと甘い香りがする。

そのとき、あなたは何を思うでしょうか。

「いただきます」。
私たちは当たり前のようにその言葉を口にします。
けれど、いつからか、それが習慣になりすぎて、
“誰に”言っているのかを忘れてしまってはいないでしょうか。

日本には、食べものそのものが神になった物語があります。
その神の名は、保食神(うけもちのかみ)

古事記にはほとんど登場せず、日本書紀の片隅に、記憶に残る姿で描かれている神です。

有名な天照大御神や須佐之男命のように、華やかな物語は残っていません。
それでも、この神様の話を読むと、
なぜか一膳のごはんが違って見えてくる。
「いただきます」の重さが、少しだけ変わってくる。

今日は、そんなマイナーだけれど、日本人の食の感覚の源にいる神様の話をします。


保食神とはどんな神様か

名前の意味 ― “食を保つ”神

まず、名前を分解してみます。

  • 保(うけ):受ける、保つ、養う
  • 食(もち):食べもの
  • 神(かみ):神

つまり、食べものを養い、生み出し、保ち続ける神様

似た名前の神様に、伊勢神宮外宮のご祭神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)がいます。
「受(うけ)」という音が共通しているのに気づかれたでしょうか。

古くから、“うけ”は食べものを意味する言葉でした。
稲荷神社に祀られる宇迦之御魂神(うかのみたま)の”うか”も、同じ系譜です。

食べものに関わる神様には、この「うけ/うか」の音が繰り返し現れる。
それはつまり、日本人が”食”を、それだけで神格化するほど大切に扱ってきたということでもあります。

古事記のオオゲツヒメと、日本書紀の保食神

なお、古事記には大宜都比売(オオゲツヒメ)という、非常によく似た神様が登場します。

須佐之男命に殺され、その体から五穀が生まれた――
筋立ては、保食神とほとんど同じ。

このため、両者は同一神格の異伝として扱われることもあります。
書物によって名前と登場人物が変わりつつ、物語の骨格は残っている。
古代の伝承が、いくつもの層を持って伝わってきた証でもあります。

神話の原典に、ふれてみたい方へ

古事記・日本書紀を通読するのは難しくても、現代語訳付きの一冊が手元にあると、この記事のような話が”自分の物語”として読めるようになります。

私が今も参照している、初学者にも読みやすい定番の一冊です。


新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

祀られている場所

保食神を祀る社は、意外なほど各地にあります。

  • 山形県 月山周辺の農耕守護の社(月山の食物神として祀られる場所)
  • 富山県 雄山神社(配祀)
  • そのほか、東北から九州まで、農村や漁村の氏神として

派手さはありません。
けれど、人々の暮らしのすぐそばに、ずっと居続けた神様なのです。

夕暮れの神饌台に並べられた米・魚・獣の供物と、跪く神職の影

神話 ― 食べものは、”体”から生まれた

保食神の物語は、日本書紀の「一書(あるふみ)」に記されています。

あらすじは、こうです。

天照大御神が、弟の月読命(つくよみのみこと)に命じました。

「葦原中国に、保食神という神がいる。訪ねて、その様子を見てくるように」

月読命が地上に降り立ち、保食神のもとを訪れると、
保食神は客人をもてなそうと、口から食べものを吐き出しました。

  • 陸に向かえば、口から米・穀物
  • 海に向かえば、口から
  • 山に向かえば、口から

それらを膳に並べ、月読命に差し出したのです。

けれど月読命は、激しく怒りました。

「口から吐き出したものを、私に食べさせるとは。なんという穢れか」

そう言って、剣を抜き、保食神を斬り殺してしまいます。

天に戻った月読命の報告を聞いた天照大御神は、深く嘆きました。

「あなたは悪い神だ。もう二度と会いたくない」

天照大御神が、弟の月読命(つくよみのみこと)に命じました。

「葦原中国に、保食神という神がいる。訪ねて、その様子を見てくるように」

月読命が地上に降り立ち、保食神のもとを訪れると、
保食神は客人をもてなそうと、口から食べものを吐き出しました。

  • 陸に向かえば、口から米・穀物
  • 海に向かえば、口から
  • 山に向かえば、口から

これが、太陽と月が昼と夜に分かれた理由だとされています。
月読命という神様の孤独については、月読命の解説記事でも触れました。

そして、殺された保食神の亡骸からは、次のものが生まれました。

  • 頭から:牛と馬
  • 額から:粟(あわ)
  • 眉から:蚕(かいこ)
  • 目から:稗(ひえ)
  • 腹から:
  • 陰部から:麦・大豆・小豆

天照大御神はそれらを集め、地上に播かせました。
こうして、人々の食と衣の源が、この世界に広がっていったのです。


この神話が伝えていること

食と死は、隣り合っている

この物語を読んで、多くの人が最初に戸惑うのは、
「食べもの」が「神の死体」から生まれたという部分だと思います。

現代の感覚からすると、少し残酷にすら感じます。

けれど、これは日本神話に限った話ではありません。

文化人類学ではこれを「ハイヌウェレ型神話」と呼びます。

インドネシア・セラム島に伝わる、少女ハイヌウェレの物語が名前の由来です。
彼女は不思議な力で人々に贈り物を与えていましたが、
やがて嫉妬した村人に殺され、埋められてしまう。
そして――彼女の体が埋まった場所から、それまで存在しなかった
芋類(タロイモ・ヤムイモ)が生えてきたのです。

夜明けの黒い土から芽吹く若い稲の芽と朝露

殺された女神から作物が生まれる。
この型の神話は、東南アジア、太平洋の島々、南米にまで広く分布しています。
そして日本の保食神・オオゲツヒメの物語も、この系譜に連なるものとされる。

なぜ、遠く離れた地域で同じ形の物語が生まれたのか。
理由はひとつではありませんが、
共通しているのは、いずれも農耕を始めた民族だということです。

種をまき、実りを得て、食べる。
その営みの中で人々は、
「大地から作物が生まれることは、何かの命の変換ではないか」
と、直感的に感じ取ったのかもしれません。

日本の保食神は、その世界的な感覚の、
日本語版の答えだったとも言えます。

命が見えなくなった時代に

昔の家庭では、家の裏で鶏を飼い、山羊を飼っていました。
祝いごとや大切な日には、その命を絶ち、家族でさばいて食べる。
子どもは、その一部始終を見ていました。

血を見て、羽を毟り、内臓を取り出す。
残酷なようで、そこには何のごまかしもありません。
「食べる」ということが、「命をもらう」ことだと、
言葉で教えなくても、体で分かっていた。

けれど今は、違います。

スーパーの棚に並ぶプラスチックに包まれた切り身の魚

スーパーに行けば、切り身の魚がラップに包まれ、
鶏はもも肉として整えられて並んでいます。
血も、内臓も、目も、そこにはない。

私たちは、命の姿を見ないまま、命を口に運んでいる。
だから、「いただきます」の重さが、少しずつ薄れていく。

――だからといって、肉や魚を絶てばいいのでしょうか。

私はそうは思いません。
野菜も、米も、果物も、みんな命あるものです。
それを言い出したら、私たちは何も食べられなくなってしまいます。

何かを食べて生きるということは、何かの命を自分の中へ迎えることです。

避けても、逃げても、その事実は変わらない。
だからこそ、目を背けないこと。
そして、感謝していただくこと。

私たちの命が、他の命の連なりで成り立っている――
保食神の神話は、その当たり前を、
一番古い言葉で伝えてくれている気がします。

月読命は、なぜ怒ったのか

もう一つ、この神話にはひっかかる場面があります。

なぜ、月読命はあれほどまでに怒ったのでしょうか。
口から出したものは”穢れ”だから、と。

かつて神職として奉仕していた頃、
神事で使われる神饌(しんせん)は、すべて調理前の姿で神様にお供えされました。
米は洗米、魚は生のまま、野菜も丸のまま。

そして、息がかかることを避けるための作法があります。

神職の中には、白い布――“覆面(ふくめん)”を口に当てて神饌を扱う者もいます。
神社によっては、榊の葉を口にくわえることもある。

なぜ、ここまで息を避けるのか。

古来、息(いき)は”生き”と通じると考えられてきました。
自分の”生きた気配”を、神様にお召し上がりになるものへ移してしまわない。
それが、供える者としての最低限の礼儀だったのです。

言い換えれば、
「これは、私のものではありません。神様のためのものです」
という姿勢を、体で示している。

月読命の怒りも、その延長線上にあります。

けれど――
月読命は、”正しさ”を守ろうとしました。
穢れたものは受け取れない。神を敬うがゆえに、剣を抜いた。

その”正しさ”が、食を生み出す神を殺してしまった。

私たちの日常にも、似た瞬間があります。
「こうあるべき」「これはおかしい」――
筋を通そうとするあまり、目の前で差し出された相手の心を、
そのまま受け取れなくなること。

もてなす気持ちで差し出されたものを、
方法が不作法だからと拒む。
それは、正しさに見えて、実は大切なものを失っている。


穀霊信仰 ― 稲穂に宿るもの

一粒の米に、神が宿るという感覚

保食神の物語の背景には、穀霊(こくれい)という考え方があります。

穀霊とは、穀物に宿る霊のこと。
稲や粟や豆に、それぞれ命が宿っているという感覚です。

「お米一粒には、八十八の神様が宿っている」

そんな言葉を、祖父母から聞いた記憶がある方もいるのではないでしょうか。

俗説の一種ですが、面白いのは、
そういう言葉が自然に生まれるほど、米は特別だったということです。

天孫降臨のとき、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原から地上に降りるとき、
天照大御神は稲穂を持たせました。

「この稲を、地上で育てなさい」

日本神話は、稲を育てることが、神の意志そのものとして語られています。
天孫降臨と邇邇芸命について書いた記事にも、その意味を記しました。

保食神は、その稲を含む”すべての食”の源となった神。
言い換えれば、日本人の食卓の、いちばん奥にいる神様なのです。


新嘗祭 ― 天皇が、今も続けている祈り

夜明けの神社の廊下を神饌を抱えて歩く神職の後ろ姿

収穫を神と分かち合う日

毎年11月23日。

現在は「勤労感謝の日」として親しまれているこの日は、
本来、新嘗祭(にいなめさい)という宮中祭祀の日でした。

新嘗祭では、その年に収穫された新米を、
天皇陛下が神々にお供えし、
そのお下がりを、天皇自らが召し上がります。

これは、単なる儀式ではありません。

新しく実った米を、まず神と共に食べる

その順序に、日本人の食への感覚が凝縮されています。

自分たちの労働の成果、と考えるのではなく、
まず、それを養ってくれた見えないものへ返す
そして、そのお下がりをいただく。

神職として仕えていた頃、新嘗祭の朝、神饌を運ぶ廊下の空気を、今も覚えています。
まだ夜が明けきらない時間、外は霜が降りていて、
両手に載せた新米のずしりとした重さが、指先に伝わってくる。

「この一粒に、今年一年が入っている」

そう思うと、足取りが自然と丁寧になりました。

この構造は、私たち一般家庭の「いただきます」にも、実は残っています。
炊きたてのごはんを、ご先祖の仏壇や神棚にまず供える家庭が、今も少なくない。

「先に、お供え」。

その順序を守るだけで、
食は、単なるエネルギー補給ではなくなります。

神棚がない家でも

とはいえ、現代のマンションやアパートでは、神棚を置けない家も多い。

「一呼吸だけ、感謝を思う」

その一瞬があるだけで、食卓は少し違ったものに変わります。


保食神が、現代の私たちに教えてくれること

“食”を、通り過ぎないこと

コンビニ弁当を、片手にスマホを見ながら食べる。
デリバリーが玄関に届き、テレビを見ながら口に運ぶ。

そういう時代です。
私自身、動画編集の仕事で追い込まれているとき、
気づいたら食事の記憶がない、という日があります。

キーボードを叩きながら片手でおにぎりを口に運び、
気づけばラップだけが机の上に残っている。
お腹はいっぱいなのに、なぜか満たされない。

保食神の神話は、
「食べものは、命の受け渡し」だと教えてくれます。

一口目を、ゆっくり味わう。
「これは、どこから来たものだろう」と、ほんの少しだけ想像する。

それだけで、食は”祈り”に近いものへと変わっていきます。

マイナーな神様が教えてくれるもの

保食神は、有名ではありません。
神社の数も、天照大御神や大国主命に比べれば圧倒的に少ない。

けれど、最近こう思うようになりました。

有名かどうかは、大切さと関係ない

日本の神様の面白さは、
「一柱の絶対神」ではなく、
日常のあらゆる場面に、小さな神様がいるという感覚にあります。

以前、八百万の神について書いた記事でも触れたテーマです。

台所には竈神(かまどがみ)、井戸には水神。
そして、食べもの全体を保つ神として、保食神。

小さな神が、暮らしのあちこちにいる。
それが、日本人の感覚です。


おわりに ― 今夜の食卓に

夜のあたたかな灯りの下、和食が並ぶ一人分の食卓

今日の夕食は、なんでしょうか。

もし少しだけ余裕があれば、
最初のひと口を、ゆっくり噛んでみてください。

その米は、どこかの田で育ちました。
その魚は、どこかの海を泳いでいました。
その野菜は、誰かの手で収穫されました。

そのすべての奥に、
“食を保つ”神様が、そっと立っている。

そう思うだけで、
「いただきます」という言葉が、少しだけ、遠くまで届く気がしませんか。

保食神の神話は、派手ではありません。
けれど、私たちの毎日に、いちばん近い神話なのかもしれません。

今夜、あなたの食卓には、どんな命が並ぶでしょうか。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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