※本記事にはアフィリエイト広告(PR)が含まれています。
古書店の棚で、ふと背表紙が目に留まる。
「竹内文書」。
そう書かれた本を手に取ったことのある人は、案外多いはずです。
そこには、こんなことが書かれています。
――日本は世界の中心であった。
――かつて天皇は世界の民を統べていた。
一度読むと、忘れられません。
「まさか」と思いながらも、どこか惹かれてしまう。
なぜ、私たちはこうした「もう一つの歴史」に心を動かされるのでしょうか。
この記事では、竹内文書という文献の正体を、元神職としての視点から見つめてみたいと思います。
「本物か、偽物か」という二元論ではなく、そこに何が託されたのかを読み解くつもりで書きました。
前回のホツマツタヱの記事、古史古伝の全体像と併せて読んでいただくと、日本という国が抱える”もう一つの物語”の輪郭が見えてくるかもしれません。
竹内文書とは何か――まずは輪郭から
竹内文書(たけうちもんじょ、たけのうちもんじょ)は、茨城県磯原(現・北茨城市)の皇祖皇太神宮に伝わったとされる古文書群です。
公にその存在が知られるようになったのは、大正時代のこと。
神宮の宮司であった竹内巨麿(たけうち きよまろ)が「代々当家に伝わる神代文字で書かれた文書」として世に出しました。
そこに描かれていた歴史は、途方もないものでした。
- 神武天皇より前に、七十数代にわたる「上古代」「不合朝(あえずちょう)」の天皇が実在した
- 日本の天皇は世界の頂点に立ち、五色人(ごしきじん)と呼ばれる白・黄・赤・青・黒の五つの人種を統治していた
- 世界中の聖人――モーセ、釈迦、孔子、キリスト、マホメット――は皆、日本で修行した
- イエス・キリストは十字架で死なず、日本に渡り、青森県戸来(へらい)村で106歳まで生きた
……いかがでしょうか。
にわかには信じがたい内容が、次から次へと出てきます。
しかし、この「信じがたさ」こそが、竹内文書が長く語り継がれてきた理由でもあるのです。
主張される内容の特徴――スケールの桁が違う
竹内文書の特徴を一言でいえば、「日本を世界文明の起源に置く」という壮大な世界観です。
上古代・不合朝という”消された王朝”
『古事記』や『日本書紀』が語る歴史は、初代・神武天皇から始まります。
けれど竹内文書は、そのはるか前に長大な王朝があったと主張します。
天神七代、上古二十五代、不合朝七十三代――。
合計すれば、日本の歴史は数千万年、あるいは数億年に及ぶことになる。
ちなみに「不合(あえず)」という呼び名は、記紀に登場する神武天皇の父・鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)に由来しています。
竹内文書は、記紀の枠組みを利用しながら、その”外側”を描こうとしたとも読めます。
このスケールは、記紀だけを前提に読むと到底受け止めきれません。
五色人と汎アジア主義――時代の空気の中で
「五色人を天皇が統べた」という思想は、大正から昭和初期の空気と切り離せません。
当時の日本は、アジアを一つの理念でまとめようとする汎アジア主義の熱を帯びていました。
「白人・黄人・赤人・青人・黒人を、日本の天皇が古代に統治していた」という物語は、この時代の思想的欲求と共鳴していたのです。
つまり、竹内文書は”どこかから降ってきた奇書”ではなく、時代が呼び寄せた物語でもあった。
そう考えると、この文書の見え方は少し変わってきます。
天空浮舟(あめのうきふね)と、後のUFO説
竹内文書には、不合朝の天皇が「天空浮舟」に乗って世界中を巡幸した、という記述もあります。
文字通り「空を飛ぶ舟」です。
戦後、この記述は昭和のオカルトブームの中で「古代UFO説」と結びつき、再解釈されていきました。
一つの文献が、時代ごとにまったく違う顔で読まれ続けている――。
これは、竹内文書という文書の不思議な生命力を示しています。
キリストの墓と、戸来村の伝承
竹内文書のなかでも最も有名なのが、イエス・キリストが日本で天寿を全うしたという記述です。
キリストはゴルゴタの丘で死なず、密かに日本に渡り、青森県戸来村(現・新郷村)で暮らし、106歳で亡くなった――。
その墓とされる場所は今も新郷村にあり、毎年6月には「キリスト祭」が営まれています。
奇異に映るかもしれません。
けれど、地元の人々が長年その場所を守り続けてきたこと自体が、一つの「祈りの事実」なのだと私は思っています。
なぜ偽書とされるのか――学術的批判を正直に
竹内文書は、ほぼすべての歴史学者から偽書として扱われています。
その根拠を、隠さずに書いておきます。
偽書とされる3つの根拠
- 神代文字が五十音体系に沿っている――後世に整えられた日本語の音韻構造を前提としており、古代成立と矛盾する
- 後世でなければ知り得ない固有名詞が登場――「イエス・キリスト」「マホメット」「エルサレム」などを古代日本で記すことは原理的に不可能
- 原本の多くが戦災で焼失――現在、学術的検証に耐える形での原資料が残っていない
1. 使われている「神代文字」の問題
竹内文書は、漢字が伝来する以前の「神代文字」で書かれていたとされます。
しかし、その文字は五十音の体系に沿っている――つまり、後世に整えられた日本語の音韻構造を前提としているのです。
古代の日本語にはなかったはずの音節が、あらかじめ用意されている。
これは、古代成立の証拠としては極めて不自然です。
2. 記載されている固有名詞の年代矛盾
「イエス・キリスト」「マホメット」「エルサレム」――。
竹内文書には、後世でなければ知り得ない固有名詞が数多く登場します。
古代日本でこれらの名を記すことは、原理的に不可能です。
3. 発見の経緯と当事者の裁判
昭和初期、竹内巨麿は不敬罪で起訴されました。
一審で有罪判決を受けたものの、昭和19年に大審院で無罪が確定しています。
ただしこれは文書の真正性を認めたものではなく、あくまで刑事責任を問えないという判断にすぎませんでした。
原本とされたものの多くは戦災で焼失したとされ、現在、学術的検証に耐える形での原資料は残っていません。
これらを冷静に見れば、文献として古代に遡ることはできないというのが、現在の学問的な結論です。
もう少し深く、偽書というものを知りたい方へ
竹内文書だけでなく、日本には数多くの「偽書」と呼ばれる文献があります。
なぜそれらが生まれ、なぜ人を惹きつけてきたのか。
藤原明『日本の偽書』(文春新書)は、その全体像を冷静な筆致で描いた良書です。
それでも、竹内文書は消えなかった
学術的には否定される。
それでも、竹内文書は消えませんでした。
戦後、昭和54年に創刊された『月刊ムー』を中心とするオカルトブームの中で再び脚光を浴び、
今もなお、書店の棚に並び、動画で語られ、旅の目的地となっている。
なぜでしょうか。
私はここに、「事実の真偽」とは別の力が働いていると感じています。
「もう一つの日本」を求める心
明治以降、日本は西洋の物差しで自分を測ることを覚えました。
歴史学も、考古学も、西洋の学問体系の中で整えられてきました。
その中で、「本当はもっと違う日本があったのではないか」という疼きが、消えずに残り続けたのです。
記紀に書かれた歴史は、朝廷が編纂した”公式の物語”。
そこからこぼれ落ちたもの、書かれなかったものが、必ずあるはずだ。
竹内文書は、その「書かれなかったもの」への渇きを、極端な形で満たしてくれる文献でした。
かつて神話とはただの昔話なのかという記事で書いたように、神話や古文書は「事実」ではなく「願い」の器としても読める。
竹内文書は、その最も極端な例なのだと思います。
陰謀論との距離感――ここが一番大事なところ
しかし、ここで立ち止まらなければなりません。
竹内文書は、しばしば陰謀論の温床になってきました。
竹内文書がしばしば語られる、危うい語り口
- 「日本人は選ばれた民族である」
- 「世界の支配者たちが真実を隠している」
- 「本当の歴史を知る者だけが目覚めている」
――こうした語り口を、聞いたことがある方もいるでしょう。
以前、スピリチュアルの罠についての記事でも書いたように、「特別な自分」を確認するための道具として神話や古史古伝を使うことは、神道が本来大切にしてきた感覚から最も遠いものです。
神道は、
自分を大きく見せることではなく、
自然の中で自分を小さく感じ直すもの。
竹内文書を「日本人はすごい」の証拠として振りかざす瞬間、
その本来の魅力――つまり、書かれなかったものへの想像力――は、
たちまち歪んでしまいます。
古史古伝は、優越感の道具ではなく、想像力の余白として読むもの。
これは、ホツマツタヱを読むときも、宮下文書を読むときも、変わらない姿勢だと私は思っています。
異伝としての読み方――ではどう向き合えばいいのか
では、竹内文書のような文献を、私たちはどう手に取ればいいのでしょうか。
私が神職として働いていた頃、ある先輩に言われたことがあります。
「神社の由緒書きにはな、正史と、口伝と、村の言い伝えが、全部混ざっとる。どれが本当かなんて、決めんでええ。祀られ続けたという事実、それが一番強いんや」
この言葉が、今も忘れられません。
竹内文書もまた、真偽の彼方に置いておいてもいい文献だと思います。
そのうえで、こう問い直してみる。
- なぜ、この文書は生まれたのか
- なぜ、人はこれを信じたかったのか
- その願いは、今の私たちの中にも、形を変えて残っていないか
そう読み解いたとき、竹内文書は「奇書」ではなく、
日本人の心の底にある願いが、極端な形で噴き出した記録として立ち上がってきます。
キリストが日本に来たと信じたかった心。
世界の中心に日本を置きたかった心。
神武天皇の前に、もっと長い時間の物語を見たかった心。
そのどれもが、「自分たちは何者なのか」という問いの、切実な裏返しなのだと思います。
触れられる場所――皇祖皇太神宮と、戸来の墓
竹内文書に興味を持たれた方が、実際に訪れることのできる場所があります。
皇祖皇太神宮(茨城県北茨城市)
竹内巨麿が宮司を務め、竹内文書を伝えたとされる神宮です。
現在も参拝することができます。
| 所在地 | 茨城県北茨城市磯原町磯原1-630 |
|---|---|
| アクセス | JR常磐線「磯原駅」から徒歩約15分 |
| 参拝 | 境内は自由参拝可(社務所対応時間は事前確認推奨) |
| 併せて訪れたい | 五浦海岸・六角堂(岡倉天心ゆかりの地)/太平洋を望む高台 |
太平洋を見渡す高台に立てば、竹内文書という文書が生まれた土地の空気を、肌で感じることができます。
キリストの墓(青森県新郷村)
青森県三戸郡新郷村(旧・戸来村)には、「キリストの墓」と呼ばれる場所が今も残っています。
毎年6月第一日曜には「キリスト祭」が営まれ、地元の人々によって守られ続けています。
「本当にキリストが眠っている」と信じるためではなく、
一つの物語がこの土地に息づいてきた事実を確かめに行く場所。
そういう気持ちで訪れれば、新郷村の風景はまた違って見えるはずです。
これらの場所を訪れるときの心構え
「本当の歴史がここにある」という熱を持って行くのではなく、
「一つの物語が、この場所に確かに息づいてきた」という視点で歩いてみてください。
そうすると、神社という場所の懐の深さが、少しだけ見えてきます。
記紀に沿った由緒の神社も、古史古伝に連なる神社も、祈りの場としては、等しい重みを持っている。
その事実こそが、私にとって一番の学びでした。
元神職として、私はこう受け止めている
私は竹内文書を、歴史書とは思っていません。
キリストが青森で亡くなったとも、天皇が世界を統べていたとも、思っていません。
けれど、この文書を「くだらないもの」として切り捨てることも、できないのです。
なぜなら、そこには確かに、誰かの祈りの熱があったからです。
大正の日本人が、昭和の日本人が、そして令和の今も、
「もう一つの日本があってほしい」と願う人がいる。
その願いを、私は笑うことができません。
かつて神職として拝殿に立ち、
何百人という人の祈りを受け止めてきた身として、
願いには常に、その人なりの理由があることを、知っているつもりだからです。
竹内文書は、事実の書ではないかもしれない。
けれど、願いの書ではあったのだと思います。
そしてその願いを、優越感ではなく想像力として受け取ることができたとき、
私たちは初めて、この不思議な文献と穏やかに向き合えるようになる。
結びに――「信じる」でも「否定する」でもなく
あなたはこの記事を読んで、竹内文書をどう感じたでしょうか。
「面白い」と思ったなら、その面白さを大切にしてください。
「怪しい」と思ったなら、その違和感も大切にしてください。
そのどちらも、あなたの中の正直な感覚です。
古史古伝を読むとは、
自分の中の「信じたい心」と「疑いたい心」を、
同時に見つめる作業なのだと思います。
そしてそれは、日本人が”信じていない”のに祈る、あの感覚とどこかで似ているのかもしれません。
見えるものと見えないもの。
語られたものと語られなかったもの。
そのあいだに立ち、ゆっくりと息を整える。
竹内文書は、そのための一つの入口。
――そんなふうに、そっと本を閉じられたなら、それでいいのだと思います。
もし、あなたの旅がここから続くなら
「もう一つの日本」は、一つではありません。
そして、そのどれもが、私たちが何者なのかを、少しずつ照らしてくれます。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
日本の神社や神様、キャリアチェンジ、動画編集についての記事を書いています。
よろしければ応援クリックお願いします。
↓




コメント